超絶人生ハードモードの感受性

感受性が強すぎて人生ハードモードな人間様へ

人生をロールプレイング2

世界とはなんなのか。

 

世界をロールプレイングゲームと照らし合わせてみよう。
こういう極端な例から話を始めると凡そ普通の方々は
「なぜこんな極端な例を出すのか?
それは考え過ぎだよ!」

と小言をくれる。
世界が一人で完結しているなんて(°ㅂ°💢)と思われるらしい。
貴方以外のみんなも生きてるんだ!豚だってミジンコだって、アメンボだって。と。

そこで前提部分から説明を始めよう。
まず人は、他人の脳を持たないし、他人の心を持つこともない。もちろん顔色をみて想像したり、相手を慮って相手の気持ちになったような「気分」にはなれる。しかしながら、人が見る色も感情も相手から見える景色も全く同じには理解することはないし、ましてや相手の考えを言葉やジェスチャーを介さずに知ることは出来ない。
要するに、相手が本当に自分と同じように意識を持っている生き物なのかを知ることは根本的には死ぬまで出来ないのだ。
ロールプレイングゲームと同じく、自分意外の何者かがほんとに自分と同じ意識を持った生き物なのかを証明出来ない。
ロールプレイングの主人公以外のキャラクターは、時間、場所、主人公のアクションに反応するようにプログラミングされていて、主人公の貴方からみたら、喜怒哀楽を感じ人生を全うしている意識をもつ1人の人間として見える、ように振舞っている。けども、実はただの肉の塊、もしくはアンドロイドの可能性だって捨てきれないのだ。
主人公以外のキャラクターはプログラミングキャラクターなのだ。

そして世界が生きた人間の集合体であると信じて生活する事と、全てはプログラミングされた肉の塊の反応の集合と考えて生活する事の違いはほとんどない。

 

聴覚も、視覚も、触覚も、匂いも味も、人生が終わるまで自分の感覚しか知り得ない。

目の見えない状態で生まれた人は視覚のない世界に生きている。要するに、他人が生きているように信じているこの世界は貴方にとって何一つ証拠を示していないのだ。

 


関係を持つ相手が、感情を持っているように見えていてももしかしたら感情を持っていない哲学的ゾンビかもしれないし、そうでないかもしれない。

 


しかしながらそれを確認する術もないし、多分哲学的ゾンビじゃないだろう。

 


でもそれを知ることができないのならば、人生は自分以外は勝手に動いているロールプレイングゲームだと考えて生きていくことはメリットも多く、実は感受性の豊かで人を傷つけるのが嫌いな優しい人間には多少生きやすくなる為の思考方法でもあるのだ。


貴方の大事な人は生きている。
貴方を迫害、傷つける者はゾンビ。そのパターンを知って、避けて、倒して、楽しくゲームをクリアする方法を考えるのは悪い考えではないのではないか。と思う。

幸せってなに

幸せの抽象度
幸福に向かって生きている
幸福の定義をつけてしまうと齟齬が生じるが各々の人間が自分の望む姿を幸福だとみなすのであれば幸福というのは人間がこうありたいと望む姿になることが幸せだと言える
例えば不幸であり続けたいと願っている人間が不幸を願っているからといって幸せでないと言えない
なぜならそういう姿でいることがその人間の望みで、
その状態に向かって進んでいるのであれば幸福であると言える。
この論法は自由という言葉の定義にも当てはまる
自由でない状態を選ぶこと
それすらも選択できるということが自由なのであって不自由という選択肢がないそんな状況を自由とは呼

その前提が覆る場面もある
短期的だったり長期的だったりある一定の時間内で正常な判断ができない場合に自分を身体的に傷つける行為を行うことがある。
その結果命が終わってしまう場合それがその本人が本当にそこに行きたがっていたのか、もしくは一時的に感情的になっただけで誰かに苦しかったことを気づいて欲しかったのかもしれない。
もし命が終わらなかったとしても実は肉体的、精神的な制約のせいで自らが本当は望んでいる幸福に向かうことができない状態の人間も多くいる。
本人はそれに気づいていないために自分は幸せに向かって歩いていると思っているが追い求めた状況が手に入ったとしても幸せになれないことが多い。
いっときでも幸せになれるのであればまだ良い方で、望んだ状態になったにもかかわらずでも幸せを感じることがない場合もある。
それは幸せになるための方法を少しでも勉強していれば間違える必要がなかったかもしれない。
なぜこのようなことが起こるかというとほとんどの人は自分がどうなれば本当に幸せになれるかを知らない。

簡単に言うと
「自分のことを知らないから」

人を幸せにしようとした時に相手が何を望むかを一生懸命考えるように、自分が何を望むかを知る必要がある。

人生をロールプレイングゲームにしてみる

人生とはなんなのか。

そして世界はなんなのか。

見て聞いて触れるものが脳に写し出した全てになっているのだから、人生とは自分1人で完結するものだ。

触れた感触は自分にしかわからず、

聞いた音も、目で見たものも自分にしかわからない。

目の見えない状態で生まれた人は視覚のない世界に生きている。

関係を持つ相手が、感情を持っているように見えていてももしかしたら感情を持っていない哲学的ゾンビかもしれないし、そうでないかもしれない。

しかしながらそれを確認する術もないし、多分哲学的ゾンビじゃないだろう。

でもそれを知ることができないのならば、人生は自分以外は勝手に動いているロールプレイングゲームだとも言える。

 

 

自分を知らない

ひとは幸せに向かって生きている。

この前提が覆ることも多々ある。
人は短期的だったり長期的だったりある一定の時間内で正常な判断ができない場合に自分を身体的に傷つける行為を行うことがある。
その結果命が終わってしまう場合、本人が本当にそこに行きたがっていたのか、もしくは一時的に感情的になっただけで誰かに苦しかったことを気づいて欲しかったのかもしれない。
もし命が終わらなかったとしても実は肉体的、精神的な制約のせいで自らが本当は望んでいる幸福に向かうことができない状態の人間も多くいる。
本人はそれに気づいていないために、自分は幸せに向かって歩いていると思っているが追い求めた状況が手に入ったとしても幸せになれないことが多い。
一時でも幸せになれるのであればまだ良い方で、望んだ状態になったにもかかわらず全く幸せを感じない場合もある。
それは幸せになるための方法を少しでも勉強していれば間違える必要がなかったかもしれない無駄な道。
なぜこのようなことが起こるかというと、ほとんどの人は自分がどうなれば本当に幸せになれるかを知らない。

簡単に言うと
「自分のことを知らない」から。

人を幸せにしようとした時に相手が何を望むかを一生懸命考えるように、自分が何を望むかを知る必要がある。

幸福、自由はそれこそ、それぞれの自由

ひとはみんな幸福に向かって生きている。
幸福の定義をつけてしまうと齟齬が生じるが各々の人間が自分の望む姿を幸福だとみなすのであれば幸福というのは人間がこうありたいと望む姿になることが幸せだと言える。
例えば不幸であり続けたいと願っている人間が不幸を願っているからといって幸せでないと言えない。
なぜならそういう姿でいることがその人間の望みで、
その状態に向かって進んでいるのであれば幸福であると言える。
この論法は自由という言葉の定義にも当てはまる。
「自由でない状態を選ぶこと」
それすらも選択できるということが自由なのであって不自由という選択肢がないそんな状況を自由とは呼ばない。

 

 

 

 

幸福

人は幸福に向かって生きている
自分が望む未来を幸福だとみなすのであれば、幸福というのは人がこうありたいと望む姿になることが幸せだと言える。
だから
例えば不幸であり続けたいと願っている人間が不幸を願っているからといって、幸せでないとは言えない。